日本の制度、「強制」と「自由」はどちらが心地よいのか?
強制<―――――――――・――――――>自由
政治の責務の一つに「強制と自由のグラデーションに線引きをする」という行為があります。
そして制度上に存在する強制と自由の間にあるライン上に線引きを行えば必ず一定層から反発の声が上がります。
だけど政治はルールを決めるモノであり、ルールの中には何かしらの線引きが生じることは避けて通ることはできません。
そこで日本の政治は強制が良いのか、それとも自由が良いのかを考えていきたいと思います。
強制の例
ボクらの所得は国に管理されています。
これは自由とは逆の発想。
誰がいつどこで所得を得たのか。そしてその所得に対していくらの税金がかかるのか、その所得に対する税は正しく支払われているのか等々。
要するにボクらのお財布の厚さを(額にもよるが)国は理解しており、その中のお金がどのように巡回しており、その流れの中で発生した税収で日本の政治は運営されています。
「財布の中身が覗かれている」という表現をすれば、お金に関してボクらは圧倒的に自由の無い社会に生きていることがわかります。
だけどこの制度に対して一定の不満はあれど強制的に管理されていると感じる人は少ないのではないでしょうか。
自由の例
ボクらは食事を自由に選ぶ自由を持っています。
朝からジャンキーに唐揚げを食べてもいいし、カップラーメンを食べてもいい。ダイエットをしているなら朝食を抜く自由もあるし、何なら一日サラダだけで過ごしたって良し。
だけど健康な生活を送るには規則正しい食事が必要となり、健康的な生活で作り出される健康的な身体は豊かな人生を送ることに繋がります。
学校でも正しい食事について周知はするけど強制はしません。ましてや大人にはなおさらです。
所得の把握と同じく、医療データを個人情報と紐づけて個々人の健康状態を強制的に管理すれば国民の健康レベルは上昇し、より豊かな生活に繋がります。
しかし、国はそこまでの強制を強いることはありません。なぜならばそこには個々人の自由があるから。
強制と自由のグラデーション
ボクらを取り巻く制度はグラデーションとなっており、その中に引かれた強制←→自由のライン上に線引きがされ運用されています。
- 急いでいれば赤信号を渡ってもいいのではないかという意見もありますが、赤信号は止まりましょう。
- 理不尽なことをされたら相手を殴ってもいいではないかという意見もありますが、人を傷つけてはいけません。
- 空腹に苦しんでいたらお金を盗んでもいいではないかという意見もありますが、お金を盗んではいけません。
- 護身用のために刃物を持ち歩いてもいいではないかという意見もありますが、刃物を持ち歩いてはいけません。
このように政治の定めたルールにはその一つ一つすべてに「強制←→自由」という概念があります。
国家は数えきれないほど膨大な制度の上に成り立っています。そしてこれから新たに設けられる数多くの制度にも同じく強制に寄るか、自由に寄るかの選択を政治が行います。
「俺は自由派だぜ!」と思っていても、制度によっては強制されることが心地良い時もあります。
どれだけ自由を満喫していても、身体を壊して働けなくなれば医療にかかることになります。
その際、強制的に徴収されてきた税金があるからこそ適切な医療を受けることができるわけですから、強制と自由は共存している存在とも言えます。
人の在り方は単一的に定められるものではありません。強制か自由かなどと自分のスタンスを決めつけず、柔軟的に対応することで、これまで異を唱えていた制度が実は心地の良いなんてこともあるかもしれません。
そんな心のストレスを抱えないことがより豊かな生活に繋がるのではないでしょうか。
明ヶ戸亮太(あけど亮太):経営者×市議会議員
現在40歳:川越市議会議員(現在三期目)・広告会社代表取締役・ICTコンサルタント・ファイナンシャルプランナー / JAPAN MENSA会員
マルチタスク・ラボ
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著書:マルチタスク思考